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広島高等裁判所松江支部 昭和28年(う)168号 判決

控訴人 被告人 波多野昇 外二名

弁護人 和田珍頼 外一名

検察官 西向井忠実

主文

本件控訴はいずれもこれを棄却する。

当審訴訟費用は被告人波多野昇及び同小島俊夫の負担とする。

理由

被告人山田愿の弁護人原良男並びに被告人波多野昇及び同小島俊夫の弁護人和田珍頼の各控訴の趣意は、記録編綴の各控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。よつて、各所論に鑑み、訴訟記録及び原裁判所が取調べた証拠を精査し、且当審における証拠調の結果に対しても検討を加えた上、右各控訴趣意に対し、次のとおり判断する。

原弁護人の控訴趣意に対する判断

所論は結局「本件において、被告人山田には期待可能性がないという刑事責任阻却事由があるのに拘らず、原審がこの点を看過したのは事実の誤認を犯したものに外ならない」というに帰着する。さて、同被告人が島根県立中央職業補導所長に就任した当時、同補導所の施設が貧弱であつたこと及び同補導所に対する予算の配賦に関し、当時県職業安定課職業補導係長であつた佐藤義雄が事実上かなり重要な影響力を及ぼし得る立場に在つたことが諸般の証拠によつて窺われることは、所論のとおりである。併しながら、一面において、本件騙取に係る金員が必ずしも所論にいうが如き使途にのみ費消されたものでないことは、証第二号の「特別出納簿」と題する書面に徴しても窺い得るところであり、なお、同被告人が徒にその成功を焦るの余り、補導所長たるの重責、全体の奉仕者としての本分を自覚せず、県財政に及ぼす影響については全く顧慮することなく、敢て本件犯行に出でたものであることは、これ亦極めて明瞭であつて、同被告人と同一の地位及び環境に何人を置いたとしても、本件犯行のような行為に出でざることを期待することができないような事情があつたということは、到底これを首肯せしめるに足る資料がない。されば、これと同趣旨に出で、原審がこの点に関する弁護人の主張を排斥したのは、まことに相当な判断であるというべく、原判決には、原審が所論の如き事実の誤認を犯した形跡は全くないから、原弁護人の論旨は採用の限りでない。

和田弁護人の控訴趣意に対する判断

所論を要約すればその趣旨は結局(1) 本件のいわゆる「禀議書」なるものは、文書偽造の罪の客体たる「文書」に該当しない。仮に然らずとするも(2) 本件「禀議書」の作成につき、被告人波多野及び同小島の両名にも共謀の責任ありと断ずべき何等の根拠もない。又(3) 支出命令に基いて作成した本件「支払通知書」を目し、これを以て虚偽の公文書ということはできない(所論にいわゆる偽造とは、虚偽の「支払通知書」作成の意味に解する)。従つて(4) これによつて県本金庫から金員を受取つた行為は詐欺罪を構成しない。又、両被告人が欺岡の犯意に出でた覚えもない。元来、本件において、両被告人には期待可能性がないという刑事責任阻却事由が存するのである。然るに、原審が両被告人に対しても有罪の言渡をなしたのは、極めて不当であつて、原判決には事実の誤認若しくは審理不尽の違法がある。というに帰着するから、右所論に対し順次検討を試みよう。

第一点(いわゆる「禀議書」なるものは、文書偽造の罪の客体たる「文書」に該当しないと主張する点)について。

凡そ、地方公共団体の会計事務、就中支出に関して作成される「禀議書」なるものは、知事或いはその委任を受けた部局長の所掌事務運営上、物品の購入代金、職員の出張旅費等の支払のため支出を要する場合、分掌事務担当の主任吏員から支出命令権者たる部局長等に対し、支出の決裁を求めるため「伺」を立てる手続上作成される書面であるから、決裁があるまでは、禀議事項に関する部局長等の意思は未だ確定したものと称し得ないことは、所論のとおりである。即ち、部局長等の所掌事務処理そのものを中心として考えるとき、決裁以前の諸手続がいわゆる準備的段階に属するものであることは、これ亦所論のとおりであるけれども、法規、慣例に基き、一定の形式を以て必ず作成することを要求される書面である以上「禀議書」が部局長等個人の私的草案、書信の如きものとは、全くその趣を異にすることは、更に贅言を要しない。

本来、地方公共団体の会計事務については、国のそれにおけると同様に、機関分立の原則を以てその根幹とするが、支出に関する執行事務の前提要件たる支出命令が、仮にも違法であり、公正を欠くものであるならば、惹いては地方公共団体の財政を紊乱せしめることとなるのであるから、支出命令をして何等の瑕疵もないものであらしめるため、これを以て支出命令権者たる部局長等の独断専行に委せることを極力避けようとしているのである。ここにおいて、一定の補助機関の補佐を受けるべきものとし、而かも、右補佐の手続を確実、能率的ならしめるため「禀議書」による「伺」という手続が要求される所以である。されば、決裁の直接効果として支出に関する出納員の執行事務が行われるとしても「禀議書」に表示される諸手続は、決裁の前提として欠くべからざる一連の手続であるから、支出命令が前提要件となつている「支払通知書」は、これ亦「禀議書」に基いて作成されるものであるということができる。

次に「禀議書」の作成者(起案者)は担当主任吏員或いはその補助職員であるけれども、その名義人は担当主任吏員のみではない。決裁が完了すれば「禀議書」中その関係記載部分については、支出命令権者たる部局長等がその名義人であることは、当然であるが、なお、決裁以前の段階において、禀議事項の性質上、他の関係吏員が何等かの意見を附記するときは、その記入部分については、その吏員も亦名義人であるといわなければならない(何等の記入もなさず単に捺印するに止まるときは、同意の意見を表示したものと解すべきである)。即ち、一通の「禀議書」につき数人の名義人があり得る訳である。而して、担当主任吏員が物品受入済等の事実を証明し、意見を具して「伺」を立て、或いは関係吏員が何等かの意見を表示するのは、いずれも部局長等の補助機関たる地位に基き、部局長等を補佐すべき職務を執行することに外ならない。従つて「禀議書」中所定の欄にそれぞれ捺印するのは、決して単に起案、閲覧の事実証明のためではなく、要するに、自ら職務執行者であることを表示し、以て責任の所在を明らかならしめんがためである。つまり自ら「禀議書」の名義人であることを表示するため、公務員としての印章を押捺するものに外ならないと解すべきである。

叙上の説示は、主として一般の「禀議書」に関するものであるが、本件の「禀議書」の性格が一般のそれと全く異らないことについては「禀議書」の形式、その他諸般の証拠に照し、毫も異論を挿む余地がない。即ち、担当主任吏員(弁護人の設例は洋裁科長山口秀代)が独断で物品を購入する権限を有しないことは、所論を俟つまでもなく当然であるが、担当主任吏員としては、補導所長の補助機関たる地位に基き、補導所長を補佐すべき職務の執行として「禀議書」によつて「伺」を立てたものであつて、各担当主任吏員が原判示の如き「禀議書」作成の権限を有していたことは、固より言を俟たない。

各担当主任吏員と補導所長とは、固よりその地位を異にするけれども「禀議書」に押捺された担当主任吏員の認印がその公務員たる地位に基いて使用すべき印章として押捺されたものであることは当然である。

而して、仮に「禀議書」が偽造若しくは変造され、或いは虚偽の「禀議書」が作成されることがあれば、それは部局長等の決裁、即ちその所掌事務の運営を誤らしめ、惹いては地方財政を紊乱せしめる虞があるのであるから「禀議書」の如きは、最も重要なる公文書の一として、法律によつて、その形式及び内容の真正につき保護を受けるに値するものであることは言を俟たない。

ところで、前叙のような制度上の要求に基いて作成される「禀議書」が、一面、支出に関する重要な証憑書類として保存されなければならないことは、当然であるから「禀議書」は、決して所論にいうが如く決裁と同時にその価値を失うものではない。寧ろその最終存在目的は、証憑書類として保存されることに在るものといわざるを得ない。されば、仮に「禀議書」が偽造若しくは変造され、或いは虚偽の「禀議書」が作成される場合、それが証憑書類として所定の箇所に備附けられるとき、ここにその行使がなされたものということができる。

要するに、本件のいわゆる「禀議書」なるものは、文書偽造の罪の客体たる「文書」に該当するものであることは、極めて明らかであつて、所論は「禀議書」の性格に関し、徒に独自の見解に立脚するものであるから、これを是認することができない。

第二の点(本件「禀議書」の作成につき、被告人波多野及び同小島の両名にも共謀の責任ありと断ずべき何等の根拠もないと主張する点)について。

本件発生の経緯、事情に関し、両被告人は原審公判審理の際、所論摘録のような弁解をなし居り、又、両被告人提出の各上申書中右同趣旨の記載部分があること及び本件「禀議書」の一部につき、両被告人において直接作成に加担した事実が認められないことは、所論のとおりである。併しながら、両被告人としては「禀議書」の内容が虚偽であり、従つて、支出命令が違法のものであることを知りながら、支出通知書の作成を拒否しなかつた事実のみによつても、出納員としての職責に鑑み、既に刑事上の責任を免れることはできない。況んや、本件の如く、虚偽の「支払通知書」を作成するため制度上の手段を弄して虚偽の「禀議書」を作成すべく、相被告人山田及び各担当主任吏員との間に、予め共同謀議をなした事実が認められる事案においては、被告人波多野及び同小島の両名にも、共犯としての責任があるものといわなければならない。唯、両被告人としては「禀議書」そのものを作成する権限がなかつたのであるから、身分なき者の共犯としての責任であることは、当然であつて、原審においてもこれと同一の見解に立脚するものであることは、原判決の判文に徴して明かである。

第三点(支出命令に基いて作成した本件「支払通知書」を目し、これを以て虚偽の公文書ということはできないと主張する点)について。

部局長たる補導所長の権限と出納員のそれとの制度上の関係は、正に所論のとおりである。併しながら、所論において主張するところは、通常一般的の場合においてのみ是認し得るものであつて、本件の如き特殊の事情の下においてはその思考方法につき根本的の是正を必要とする。即ち、出納員としては、支出命令に基き当然に「支払通知書」を作成しなければならないということは、支出命令に何等の瑕疵も認められない場合にのみ是認し得るところであつて、仮に、何等かの非違あることが窺知されるときは「支払通知書」の作成を拒否することは、寧ろ出納員に課せられた職務上当然の義務であるといわなければならない。況んや、前叙の如き予め共同謀議をなした事実が認められる本件において、所論の如き一般的理論を根拠として、共犯の責任を否定するのは当らざるも甚しい。

第四の点(本件「支払通知書」によつて、県本金庫から金員を受取つた行為は、詐欺罪を構成しない。又、被告人波多野及び同小島の両名が欺罔の犯意に出でた覚えもない。元来、本件において、両被告人には期待可能性がないという刑事責任阻却事由が存するのであると主張する点)について。

凡そ、詐欺罪に関し、騙取に係る金員の使途等その動機如何は、犯罪の成否に影響を及ぼさない。所論において掲げる「被告人等の操作に係る特別会計は補導所内において一般に知られていた」との事実の如き、寧ろ両被告人が本件において共犯としての責任を免れることができない根拠であるということもできる。所論のうち前段は、詐欺罪の構成要件に関する法理を無視するものであるから到底これを是認することができない。次に、期待可能性がないとの所論はこれを是認し難いことは、前段原弁護人の控訴趣意に対する判断において説示したところと同一の理由によつて明らかであるから、ここにこれを引用する。

要するに、原判決には、原審が所論の如き事実の誤認を犯した形跡なく又審理不尽の違法と認めるべき点もないから、和田弁護人の論旨も亦採用の限りでない。

よつて刑事訴訟法第三九六条、第一八一条第一項により、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 岡田建治 判事 組原政男 判事 黒川四海)

弁護人原良男の控訴趣意

原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある。即ち本件は左記事情からして「期待可能性がない」という刑事責任阻却原因がある。

(1)  被告人山田が所長に就任した当時たる昭和二十五年五月頃の中央公共職業補導所は松江家政高等学校の一部を間借りしおり且建築、木工、機械、洋裁の四科があるに過ぎず極めて貧弱なものであつた。所長就任後同年十一月には神国工業株式会社所有の建物を買収して本式の補導所に仕上げ昭和二十七年には熔接、電機器、経理事務以上三科の増設を行い県下七補導所中その設備においても内容においても最も充実したものに育成したものである。所謂所長としての経営努力極めて大なるものありその功は賞讃さるべきものがある。

(2)  右の充実は全て予算を伴うものでありその予算配布の実権を握るものが県職業安定課職業補導係長佐藤義雄であることは記録上明かである。

(3)  右予算獲得の接渉は補導所経営上における所長として最も重要な仕事であつてこれが接渉につき残念乍ら右佐藤係長は暗に供饗を要求するため補導所の拡充のためには已むなく接待せざるを得なかつたのである。

(4)  右接待に要する費用については予算上の費用がないため本件の如く予算の流用となつたのであるが何人も所長としてかかる立場に立たされるならば本件と同一事態に陥らざるを得ないものと考えられる。

弁護人和田珍頼の控訴趣意

第一、「禀議書」は文書偽造の対象となる「文書」ではない。

一、禀議書を作ると云ふことは上司に禀議して決裁をうけやうとする下僚が必要である場合には当該事務に関係のある同僚に合議(回議)して上司に当該事務を如何に処理すべきであるかを伺ふ書面であつて、未だ公務所又は公務員の意思決定以前のものであります、即ちその禀議書に書かれた内容は合議(回議)の際関係同僚から訂正されるかも知れず、上司によつて改変され又は否定されてしまふかも知れないものであります。訂正乃至改変され又はされないで決裁のあつた時始めてその事務について権限をもつ公務所又は公務員の意思が「決定」するのです。決裁があつて後、その決定された処に従つて或は契約書を作り或は通知書を作ることになります。かかる禀議書は公務所又は公務員の意思表示若は事実認識の記載とは云へないのであつて文書偽造罪を以て其の信用を保護さるべき文書でないと考へます、本事件の禀議書中或るものは物品の売買契約をいかがすべき哉を伺ふものであり、或るものは出納員に対して支払命令をすべきや否やを伺ふものでありますが禀議をするといふことは右事務に対する本件補導所の意思を如何に決定すべきやの内部的準備に他ならぬのであつて未だ補導所として又所長として表示すべき意思が決定されてゐないばかりでなく禀議書の内容は如何に訂正、改変されるかも知ない状態にあるわけのものであります。

二、禀議する者は所長の補助職員であつて所長の意思決定を補佐することを職務として独立の意思決定を為し所長と交渉するといふが如き地位の者ではありません。即ち禀議を書くといふことは公務所又は公務員の補助者がその事務につき権限をもつ「公務所の長」又は「権限ある公務員」の為めに意思決定を補佐する事実行為であつてその禀議書は公務所又は公務員の名に於て為すべき意思又は認識の表示を為す権限をもつものではないのであります処、公訴状並に原判決に謂はれる所の「禀議書作成の職務権限」と云ふことは甚だ了解し難いことであります、例へば本件第一の(一)の事実に就て原判決は「同補導所洋裁科長として同科物品購入並びに其の代金支払の禀議書作成の権限を有する島根県技術吏員山田秀代」と判示されてゐますが科長は「同科物品の購入」の権限をもつものではありません。購入の権限をもつものではないからこそ「禀議」(伺ひ)してそのことに「権限をもつ所長」の決裁を得なければならないのです「物品の購入」の為めの「注文」又は「契約」の可否その注文乃至契約に就て表示すべき「補導所の意思」は禀議がそのまま又は変更されて決裁された時、内定するのであり若し「注文」又は「契約」の書面を作成すべき場合には之れにより始めて補導所の意思を表示した文書が作られることになるのであります。禀議書は職務権限の行使ではなく、職務権限を有する者を補助すべき地位に在る補助職員が権限を有する者の意思決定を準備する内部的事実行為であり決して「権限」の行使ではありません。

三、禀議書は当該事務に権限をもたない職員が権限をもつ上司に公務所の意思を如何に決定すべきかを伺ふために書くのですが之に捺印する者は関係同僚、上級補助員、決裁権者等であります処、其の捺印は禀議書作成名義人としての捺印ではない。決裁権者(上司)を補佐すべき地位にある者がそのまま又は変更して同意した(補佐行為として)又は反対意見を記入した等の証憑として捺印するものであることは禀議書の性質上当然であります。刑法の「有印公文書」とは作成名義者である公務所又は公務員の作成者としての「印」を指すものであつて右の如く或る書面の内容に反対又は同意した補助職員が「閲覧」又は「発案」の証憑として押捺する印を指すものではないと思れるのであります。

四、禀議書は未定の事柄を内容とするものであつて補助者から上司へその未定の事柄を決定して貰ふ為めに提起するものであります。右書面の性質上其の「決裁」を得ること以外には「行使」(かかることを「行使」といつてよいか疑問ですが)さるべき余地はないのです。決裁があつた後、或は契約書が書かれ或は支払命令が下されるといふことは「決裁」の効力であつて禀議の効果ではありません(禀議をする者はかかる効果を生ぜしめる権限がないのです、権限があれば禀議する必要はないのです)。禀議が決裁され、これによつて支払命令が下され、支払命令によつて支払通知書が作成された場合、其の支払通知書を金庫に呈出して支払を求めることは支払通知書の行使でありますが禀議は伺ふことの手段でありますから積極又は消極の決裁があれば任務を終了してしまいます。其の後は唯公務所内の保存規定によつて「保存」されるだけであります。後日会計検査等の場合検査資料として調査されるとしても夫れは「行使」ではありません。検査事項の証憑物件となるだけのことです。保存規定に基いて公務所内に保存されることを指して「公務所に備へ付け行使した」といふのが原審の考へ方の様でありますが禀議書の行使といふことについて判断を誤られていると考へられます。本件禀議はいづれも回議(合議)を経て所長の決裁を為されたのでありますが、かかる禀議をうけた所長自身が本件禀議を「科長」に要求しているのであつて其の内容の虚偽の禀議をうける所長が先刻承知してゐると云ふ事実から稽へても虚偽文書を以て決裁権者を欺かふとする意思に出でたものでないことは瞭かでありますし情を知らない第三者に用いる目的のものでないことも亦瞭かでありまして此の点から云つても虚偽公文書作成行使の犯意はないと云わねばなりません。行使の点について原審公判に於て「備付けたか」との質問に対し之れを肯定する応答の部分がありますけれ共夫れ夫れの場所に保存したことを指すものに他ならないのであつて此のことは被告人波多野、小島の供述を御検討願へば明かであります。

第二、被告人波多野、小島に対して禀議書の作成について共謀の責任を問れるのは失当である。

禀議は各科長が提案するものであり禀議書の作成について被告人等は加工してゐないのであります。本件は当時島根県庁職安課の係長であつた佐藤義雄(技師佐藤義雄ではない)に対する山田愿(補導所長)の贈収賄山田愿其の他補導所職員の横領の嫌疑を以て捜査をすすめられた事件でありますので当局の調べに対して黄白に対する身の潔白について当局の心証を得ることにのみ心を痛め其の余のこと(禀議の作成者は誰かというやうな点)について煩雑な供述をして心証を害してはならぬとの浅墓な心情から(又それが罪になるなどとは全く思ひ及ばず)審訊に対して殆ど争はず原審公判の訊問に於て漸やく此の点を明かにするようになつたものであります。此の点に就ては例へば科長(技師)佐藤義雄の供述調書永瀬科長に関する新宮永紀の供述調書を御参照になれば尠くも本件禀議書中右佐藤、永瀬両科長関係のものは右科長の作成であつて被告人波多野、小島が共同してゐないことが判るのであります。被告人波多野、小島が原審に提出してゐる上申書及同人等が原審公判に於て供述してゐる通り山田所長から各科長へ予算を操作して正当な予算支出方法ではない経費のやり繰り方を命ぜられ、被告人等に対しても夫れに応じて出納員としての収支措置を命ぜられてゐるので各科長が右やり繰りの為めの禀議を書くことは承知してゐたけれ共其の書面の作成には加工してゐないと云ふのが本件の事実であります。尤も被告人小島が石原しげ子に命じて何程かの書面を書かせた旨の石原しげ子及被告人小島の供述調書の記載がありますけれ共右は石原しげ子の出納に関する書面は出納員の責任に於て作られるものであるとの誤解に出でた供述であり小島の供述記載の誤りは原審公判に於て同被告人が陳述してゐる通りであります。此の点に関する原審の認定を誤認と云へないならばまさに審理の不尽であつて証人として各禀議書の作成に就て各科長を御訊問いただく必要があると考へます。

第三、本件支払通知書は偽造と云はるべきではない。

支払命令が下された場合、出納員は支払通知書を発行すべきものであります。支払命令なくして支払通知書が作成されてはならぬと同時に支払命令があれば支払通知書は発せられなくてはならぬのであります。支払命令をうけた出納長は支払通知書を発するに際り予算に適合するかどうかを審査することを訓示された規定はありますけれ共、若し支払命令の具体的な内容を審査せねばならぬものとすれば支払命令を禀議し、決裁したと同等の手続が再び出納局に於て行はれる結果となり(支払命令を出納長に出すべきや否やを禀議した主務部、課の調査、勘案を出納局が再び行はねばならぬこととなり)決裁権者の決裁は出納長の認定如何によつて常に左右されてしまうことになる、従て右「審査」は政府に対する会計検査院の如き関係ではなく各官庁の長と其の庁の会計課長又は出納官吏の如き関係であり一応の訓示規定と解すべきであらふと考へます。出納長は県知事の発議に県議会が同意することによつて選任される地位であるけれ共部局(補導所の如き)の出納員は其の部局の事務吏員に知事が義務を命ずるのを常としました。(本件波多野、小島はまさに其の通りである)知事から補導所長に支払命令を発する権限が与へられて居り、其の所長の部下である事務吏員又は嘱託(雇員)に知事名で出納員の兼務を命じている場合、右出納長の如き身分の独立性(乃至半独立性)はないのであるから出納長に対する「審査」の規定を右の如き出納員に適用することは全く意味がないと云はねばなりません。仮りに右の如き出納員にも前記支払命令「審査」に関する出納長への訓示規定の適用又は準用があるとしても其の審査をつくさなかつたことは職務の執行(支払通知書作成に当つての注意義務)に懈怠があつたと批難されるのは格別支払通知書自体の有効無効を生ずる筈はないのであります。本事件の各支払通知書はいづれも権限のある所長から出納員に対し支払命令を下し、出納員である被告はこれに依つて支払通知書を発したものである。支払命令の内容に錯誤があり或は失当の部分があつて後に其の支払をうけた者が「不当利得」として返還を命ぜられるやうなことがあるとしても其の錯誤或は失当が相当重大であつたとしても権限のある者から下された支払命令夫れ自体は有効に存在するのであり、有効に存在するかかる支払命令に基く支払通知書亦有効でなくてはならないと考へます。虚偽の支払通知書とは支払命令のないのに発せられたか或は支払命令より過大な金額の記載ある支払通知書を作成した場合を指すものと解されるのであります。支払通知書の内容は支払命令であります。支払命令に合致する支払通知書の記載を指して「内容虚偽」と判示されたのは失当であると考へます。

第四、被告等に騙取の事実並に犯意はない。

一、原判決並に公訴状の記載共に本件の金員を被告人等が騙取したと云はれてゐるけれ共、被告人等が領得して夫れを私して如何に処理したかに就ては何等摘示されていません、被告人等は本件の金員を領得したことはないからであります。被告人は当初から毛頭領得の意思はなく唯「経費」のやり繰りの為めに所長の要求する如く事務を(処理したにすぎないのであります)各科長が所長の要求に従つて(禀議し、その決裁があり支払命令があつたので被告人は其の支払命令通りの支払通知書を作り、操作した)其の結果の金員はいづれも補導所関係の予算操作乃至経費に使用され被告人波多野は其の残額を後任者小島に引継ぎ小島は其の後操作等に用ひられた残金のものを一々帳簿又はメモに記載し補導所の洋裁科長に作つて貰つた堅い袋に保管してゐた(補導所に金庫がない)ものであることは疑ふ余地のない事実であります。

二、被告人等に領得の意思はなかつたとしても第三者に利益を得させる意思はなかつたかという点については前記一、記載の通りであつて被告人等にかかる意思は全くなかつたものであります。県副出納長白井政治及銀行員伊藤新一郎同佐々木光義の供述調書にあるやうに金庫に於ては支払通知書の内容を審査することがないので仮りに被告人等に金庫を欺く必要はないのであるから従て被告人等に金庫を欺くといふ犯意をもつたわけがありません。小島の性格については山本清子の供述調書中「会計係小島さんは非常に堅いお方で一度も山田所長さん達と酒を飲みに来られた事がありませんでした、飲み代の支払に来て下さつた時に私が酒を「コツプ」に一杯位サービスしようとしても断つて帰られると言ふお方であります」の供述御参照、右に依つても小島が身を清廉に持して一杯の酒をすら「おことわり」してゐた心境を知ることが出来ると考へられます。

三、被告等が操作乃至やり繰りしたことに依る「特別会計」は所内誰も知つて居り所長の命令又は指示によつて各科は随時必要に応じて保管者から支払をさせていたものであります。証人として各科長を御訊問いただきますれば被告人等が「私し」しやうとしたもの又は「私し」したものでないこと(全く役所のやり繰りであること)は明瞭することであります。

四、「期待可能性がない」という点について

1、松江中央職業補導所は「中央」と云ふけれ共全く不備狭溢、貧弱極まる「建物」であり「設備」であり之れを整へ職業補導所らしい様相に整へ次では中央職業補導所と称せられるに足るだけの形態内容とする為め山田所長は渾身の情熱を傾到して百方努力してゐたこと(此の点亦本件に於て御肯認いただけるものと思ふ)かかる場合波多野、小島は所長の「その為めに」の遣り繰りを拒否出来なかつたこと。2、予算運用の中心であり責任者である各科長も之れを拒み得なかつたものであつて(此の点は記録上明瞭である)波多野小島等も同調するほかなかつた。かかる予算の遣り繰りは創立当初からの慣行になつて居り波多野は其の前任者から小島は波多野からかかる遣り繰りによる特別会計の引継をうけたものであります。3、「遣り繰り」の結果を私したものでないのは勿論、之れを私しする為めの遣りくりでなかつたこと(小島の清廉さについては記録並に証拠に照して殆ど説明を要しない)。4、小部局(小特別会計)の「兼務」出納員は本来の職務に附随した身分であつて部局長(所長)のもつ人事権に左右される地位であり特別の手当も報酬も与へられてゐない。本来の職務が知事の任命であり「兼務」の出納員も亦知事の任命である(被告人山田が出納員の任命は出納長だと上申書で云つてゐるのは誤りである)。知事から所内職員の身分につき内申の権限を与へられている所長に抗し難いのは勿論である。況んやその所長は遣り繰りするほかない不合理な経費の下で「補導所の運営」に懸命でありその性格は激しい人柄である、波多野小島が抗し難い立場と事情に在つたことは明瞭である「以上の点については(1) 県庁下の汚職事件は私腹したのではなく機構が悪い為であること、(2) 出納員の組織を更め地方出納室を設け各部局の出納員を止めたことに関する県知事の県議会に於ける説明を記載した新聞紙等御参照)5、原審判決は期待可能性不存在の主張を否定する理由として「本件補導所に勤務する職員の新年宴会懇談会の費用に充てられてゐる部分があることを指摘されてゐる処、本件補導所は所謂現業官庁であつて恰も徒弟養成所を兼ねた「工場」であつて其雰囲気は全く「現場」に等しいのであります。従つて補導生と職員が一体となつて四季折り折りの行事を行うことは創立当初からの慣例であり此の補導所の行事の一つとしての新年会であり懇親会であるから実際上右経費は補導所の経費と云ふべきであります。補導所の特殊な実態を知らず普通の官庁の如く考へられては事情に即せない判断となりませう。以上具体的な諸点を綜合すれば被告人等のかかる「環境」並に「事情」の下に於ては被告人以外の他の何人をこの立場に置いても本件の如き措置をなさざるを得なかつたものと考へられ、この点に於て被告人には責任阻却の事由があると信ずるのであります。

備考 (一)本事件の真相を糺明する各被告人の上申書に陳述せる如く当時中央補導所としては当時松江家政高等学校の一室の借住居であつた同補導所が立退要求によつて新庁舎(元神国工業株式会社製材工場跡)の買収並応急修理続いては科目の増設による庁舎の増改築、機械器具等諸施設の拡充或は又労働省の指導方針に基くモデル補導所として三ケ年計画による施設整備の実施等補導所の運営強化上必要な諸施策相次いで出来たのであるがこれ等事業の完遂は当時山田所長に負荷せられた重大な使命でその使命達成のため同所長は全努力を傾けて県職業安定課や財政課に対し施設計画の打合、予算の獲得等について折衝することとなつた。(二)特に職業補導係長として直接補導所の指導監督の立場に在つて補導行政の実権を握る佐藤義雄の了解承認が絶対必要で随つて同係長の意を迎へるため同係長を中心とした諸種の会合打合が最も多く開催された。而も酒色を好む同係長はそうした打合、会合は特に執務時間外や庁外の場所を指定し暗に饗応接待を強要したものである。(三)右交際接待費の支出に際り、補導所予算にも僅かに事務費(本予算は主として人件費等経常的支出を計上したもので非常に窮屈なものである)に於て年間の茶代にも満たぬ少額の食費が計上されあるのみにて(他の実習費施設整備費には食糧費目なし)正当支出する事が出来ず已むなくその財源捻出を遣りくりによることとし所長はその操作を部下職員に指示要求したのである。(四)この種の操作方法は出納閉鎖期に於て到底実行不可能な「歳入義務額」で到底まかない切れぬ過少の「食糧費」等を含む不合理な予算と決算の辻褄を合せる為め県の指示をうけて定額戻入等の名目によつて適当に措置して居た事柄と同一の操作方法である(虚偽の定額戻入、虚偽の年度更正を以て収支を操作し予算に対する決算の辻褄を合せることを毎年度の例としてゐた)。(五)知事の任命による出納員といへども所長の直接指揮下に在りて生殺與奪の人事を有する所長の支出命令に対してはこれを審査するといつても何等の身分保証なくしては有名無実であつて服従関係に支配される(出納機構の欠陥)山田所長の性格は自己の所信に対しては極めて強く強いて之に反抗せんとするときは身の不利益を招く恐れありとして所員一同は萎縮してゐた(被告人波多野、小島の上申書参照)。一定の地域毎に地方出納室といふものを設けて出納員を駐在させその出納員に当該区域内の各庁に係る支払命令の審査支払通知の事務等を取扱はせたならば斯くの如き犯罪は成立し得なかつたと思考される。即ち県が機構を改正した所以である(島根県庁で作成されたプリント機構改革要綱御参照)。(以上の実情に関しては之れを一層瞭かにする為め各科長の証人訊問を御願いしたい所存であります。)

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